沖縄 体験ダイビングのこんなイベント
印刷するページの画像はいったんコンピュータのメモリ上で組み立ててから、ビット単位でプリンタに転送しなければならない。
プリンタの解像度が600dpi(ドット・パー・インチ/解像度の単位で、1インチあたりのドット数を表す)の場合、ケーブルを経由して一ページあたり3300万ビット以上のデータを送り出さなければならないのだ。
コンピュータは1ページ分の画像を1秒間でメモリ上に展開でき、プリンタはそれを2秒でプリントできる。
しかし当時は高速だと考えられていたシリアル転送を使っても、このデータをすべて送り出すには15分近くかかった。
レーザープリンタをオフィスに普及させようとするなら、もっと高速な接続方式が発明されなければならなかったのである。
PARCのプリンタはそれ自体が独立したコンピュータで、接続されているコンピュータと対話できるようになっていた。
だがこの双方向の会話には、両方のシステムが同時に話をしようとするとデータが衝突する危険がともなう。
一本のケーブルに10台以上のコンピュータやプリンタを接続すると、衝突の危険性はさらに大きくなる。
衝突問題の完璧な解決策をなかなか考え出せなかったMは、ふとあることを思いついた。
少なくともアイデア的にはすばらしいし、昔から使われている方法でもあった。
彼は、電話の共同加入線を真似したのである。
パーティーラインの共同加入者である隣人が善良な人間であれば、電話をかける前に受話器に耳を傾けるだろう。
イーサネットの装置も、これと同じことをする。
つまり、まず回線の様子をうかがって、ほかで転送が行われているようならばランダムに時間をあけてもう一度かけ直すのだ。
イーサネットには同軸ケーブルが使われ、一秒間に267万ビットのデータを転送できる。
解像度600dpiで印刷する場合、いままでは15分かかっていた転送時間を12秒まで短縮できるのである。
これは、まさしく技術の勝利だった。
2.67MbpS(メガビット・パー・セカンド)の転送速度を持つイーサネットは、とんでもない製品だった。
あとでわかったことだが、コンピュータとプリンタをつなぐだけでなく、コンピュータ同士の接続もできるのだ。
どのアルトにもイーサネット機能がついていたから、ネットワークで接続するために各コンピュータにアドレスと名前をつけることになる。
全ユーザーが自分のアルトに名前をつけるのだ。
たとえばアルトの製造を指揮したJ・Eは、自分のマシンを「ゴザンダ」2.67MbpSのイーサネットは、頑丈で比較的単純な技術だった。
だが、PARCは商品開発をする場所ではない。
技術的な裾野を広げることがPARCの目的だ。
そこで同じケーブルを使って、イーサネットの転送速度を10MbpSまで上げようということになった。
この転送速度が実現すれば、ネットワーク上の複数のコンピュータが仕事を分担して並列処理ができると考えたのである。
Mの計算によれば、1990年代に市場が要求するのは1MbpSにすぎず、2000年になってようやく10MbpSが要求されるという。
そこで、PARCはまっすぐ2000年をめざすことに決定したのだ。
Mは2.67MbpSのイーサネットが110年間は役に立つ製品だと予測したが、これはまったく無視されてしまったのである。
不運なことに、10MbpSのイーサネットはきわめて複雑な技術だった。
2.67MbpSであれば製品化できたかもしれないものを、再びテクノロジーの練習問題に引き戻してしまったわけである。
おかげで商業主義とのごたごたに巻き込まれずにはすんだが、イーサネットが製品化されるまでにさらに6年かかった。
そして、製品のどこにもXEのラベルは貼られていなかった。
XEPARCがアルト、レーザープリンタやイーサネット以上にパーソナルコンピュータ産業に貢献したのは、仕事の進め方、もっと具体的に言えばB・Tの仕事の進め方だった。
テキサス州出身の心理学者B・Tは、1960年代の初め、人間はコンピュータを使って何ができるか、何をすべきかということに興味を持った。
彼はコンピュータ科学者ではなかったが予言者的な人物で、自分の役割は本物のコンピュータ科学者を彼らにふさわしい研究に導くことだと考えるようになったのである。
TはNASAでこの仕事を始め、二年後に国防総省高等研究計画局ア−パ(ARPA)に移った。
ARPAはケネディー時代に計画されたプロジェクトで、特定の分野を選んで資金を援助しようという組織だ。
普通、連邦政府の資金援助を受けようとすると、面倒な手続きを踏まなければならない。
ARPAの援助には、そうした手続きが必要なかった。
TをはじめとするARPAの出資担当者は、ソ連(当時)より優位な立場に立つにはどの方向に技術を推し進めればいいかということについて、なんらかのアイデアを持っているはずだった。
そしてARPAの研究資金を使って、彼らが信じる方向に向かって技術革新を進めていくだろうと期待されていたのである。
1965年、当時33歳だったB・Tは、先進的コンピュータ研究としては世界最大級の政府予算を管理するようになっていた。
ARPAでは、Tは並行してアメリカ中の15から20の大学や企業のプロジェクトに資金を提供していた。
彼は、そうしたプロジェクトの主要研究者を集めて定期的に会議を開いている。
研究者同士が情報交換をするためである。
彼は、初の全米規模のコンピュータ通信ネットワークである「ARPAネット」の開発にも資金を援助していた。
主にARPAが出資しているプロジェクトの研究者たちが、お互いにいつでも連絡を取れるようにしようというのだ。
最高の研究をしている最高の人間を見つけ出し、さらにすばらしい研究ができるように援助する。
そのためだったら、彼はどんなことでもやった。
Tは、そうすることを自分の仕事としたのだ。
XEが1970年に連絡を取ってきたとき、Tはすでに政府の仕事を辞めていた。
ベトナム戦争の最中に、彼はサイゴンにある米軍のコンピュータシステムを組み直す作業をまかされたのだが、そこで何か不愉快な経験をしたのだ。
Tが現実世界のコンピュータの問題を解決するように言われたのは、そのときが初めてだった。
彼にとって、現実というのはあまり居心地のよいものではなかったのだ。
そんなところにいるくらいなら、観念の世界に戻ったほうがいい。
観念の世界には堕落させるものといってもデータしかなかったし、死体を数えるようなこともしなくてよかった。
XEが顧問になってほしいと要請したとき、Tはユタ大学に勤めていた。
XEはTの人脈を頼って、のちにPARCのコンピュータ科学研究室(CSL)となる組織の研究スタッフを集めようとしたのである。
しかし彼自身は研究者ではなかったから、XEは彼に研究室の運営をまかせることまでは考えていなかった。
ところがTは、結局はその地位も手に入れることになったのだった。
ジャズミュージシャンにしてコンピュータの予言者であり、TがPARCで最初に一雇った人間でもあるアラン・ケイが、よく口にした言葉がある。
世界のトップクラスのコンピュータ研究者100人のうち58人はPARCで働いている、というのだ。
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